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2024年大河ドラマ「光る君へ」|源氏物語以外の紫式部の作品「紫式部日記」

2024年大河ドラマ

「源氏物語」が有名な紫式部ですが、彰子に仕える間に道長をはじめとする宮廷の人々や出来事を記した「紫式部日記」も書いている。個人的な日記というより、宮廷行事の記録のようなイメージに近い。

紫式部日記は以下のような4構成となっている。

①前半日記体部分
②消息文部分
③年次不明日記体部分
④後半日記体部分

①前半日記体部分

1008年秋から翌年正月三日までの記事。彰子の出産とその後の行事、宴の様子が中心につづられる。その場にいる人の様子や会話などを女房目線で生き生きととらえているところに価値があり読み応えもある。

②消息文部分

手紙のような部分で、女房たちの容姿や人となり、清少納言、赤染衛門、和泉式部などの女房批判、自己反省や処世術のようなものまで語られている。

和泉式部

「和泉式部日記」の作者で、彰子に仕えた。恋多き女性であったと言われている。

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書き交はしける。されど和泉はけしからぬかたこそあれ、うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉のにほひも見えはべるめり。歌はいとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわりまことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまる詠み添へはべり。
 それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みやとはおぼえはべらず。

(意味)
古い和歌についての知識、和歌の理論など、それほど和歌のことをわかっておらず、素晴らしい歌人だとは思わないが、口にまかせて詠んだ歌でも必ず魅力のある一節があり、目に留まります。それでも、人が詠んだ歌を批判して論じるのは、そこまで歌を分かっていないようで、単に「自然と歌が口をついてでてくるだけなのでは」と見受けられる作風です。こちらが恥ずかしくなるほどの立派な歌人だとは思えません。

赤染衛門

「栄花物語」の作者で、彰子の母「源倫子」、彰子にも仕えた。家族思いだったと言われ、家族を思った和歌を多く詠んでいた。紫式部は赤染衛門について長所しか書いておらず、先輩として慕っていたようだ。

ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとてよろづのことにつけて詠み散らさねど、聞こえたるかぎりは、はかなき折節のことも、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。

(意味)
特に家柄が優れているというわけではないけれど、実に風格があり、歌人だからと言ってやたらと詠むようなことはなく、ちょっとした折に詠む歌も、こちらが恥ずかしくなる詠みぶりです。

清少納言

「枕草子」の作者であり、定子に仕えた。

紫式部が彰子に仕え始めた時にはすでに定子は亡くなっており、紫式部と清少納言に面識はないと言われる。ただし、「枕草子」は宮中でも人気があったため、紫式部も読んでいたと思われる。清少納言は「枕草子」の中で、紫式部の夫のことをからかっている。

清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書き散らしてはべるほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり
 かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行末うたてのみはべれば、になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるにはべるべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよくはべらむ。

(意味)
得意顔で偉そうにして漢字を書き散らしているが、よく見れば足りないことばかりです。人と違うことを好んでいるような人は最後には必ず見劣りして、行く末が悪くなるでしょう。風流ぶろうと無理して、浮ついているようです。

③年次不明日記体

道長の邸宅「土御門殿」の御堂での法要とその後の舟遊び、道長が紫式部のもとを訪問したエピソードが記されている。1008年の5~6月ごろの出来事とされる。

④後半日記体部分

1010年正月の記事で、彰子の二人目の皇子の誕生50日の祝いを中心とした正月行事が記されている。

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