当サイトは記事内に広告を含む場合があります。

紫式部ゆかりの地|平安神宮とその歴史

2024年大河ドラマ

400年余り続いたとされる平安時代で欠かせないのが、平安京の存在。794年以来1100年近くも天皇が住む首都であった。

平安京

桓武天皇

天智天皇のひ孫。天智天皇と天武天皇どちらの子孫も続いていたが、壬申の乱で天武天皇が勝利したため、奈良時代は天武系の天皇が続いていた。そんな中、6代ぶりに天智系から出た天皇が光仁天皇であった。その息子が桓武天皇である。

784年、これまでの都・平城京から北へ40キロの地に、桓武天皇は長岡京を造ろうとしていた。長岡京周辺は水が豊かで交通の便が良い場所であった。

平城京は仏教勢力が政治に介入しており、貴族も僧侶もくさりきっている・・・
立て直すためには遷都が必要だと桓武天皇は思っていたのだった。

しかし785年、桓武天皇の命令で長岡京を建設していた藤原種継が、現地で監督中に暗殺されてしまう。

そのほかにも桓武天皇の母や皇后が亡くなったり、はやり病が起きたり、洪水が起きたりと不吉なことが続き、長岡京は呪われているとのうわさまでひろまってしまった。そんなとき、家臣の和気清麻呂が、長岡京を別の場所に移すことを提案する。

794年、再び都が移され、平安京と名付けられた。これ以後、江戸時代の終わりの1869年まで日本の首都であり続けたのである。平安京は平城京と同じく唐の都・長安を参考にしており、東・西、北を山に囲まれ、南が低く開けているという地形で、古代中国の時代から都によいとされていた。東西南北の4つの方角に、青龍、白虎、朱雀、玄武とよばれる聖獣を配する信仰を背景とした。また、桂川、鴨川の2つの川に囲まれ、水城好通の発達した地域でもあった。

広さは東西約4.5キロ、南北5.2キロ、碁盤の目状に道路が走り、正門の羅城門から一直線にへ朱雀大路が走る。朱雀大路の西側が右京、東側が左京と呼ばれていた。左右逆になっているが、天皇から見た左右を基準としたからである。羅城門の東西には東寺と西寺が建立され、五重塔で有名な東寺は(空海)に与えられ、のちに真言宗の総本山となった。

朱雀興治の突き当り、平安京の一番奥には「大内裏」があり、天皇が住む内裏、即位礼など国家行事を挙行する八省院(朝堂院)などが置かれていた。

平安神宮

1895年、平安遷都1000年記念に第50代桓武天皇をご祭神として、京都市左京区岡崎に建設されたのが、平安神宮である。社殿は、神殿を除いて当時の平安京の大内裏が約8分の5の規模で再現されている。朝堂院(大極殿)・応天門・蒼龍楼・白虎楼・歩廊・龍尾壇(りゅうびだん)などは1895年の創建当時に造営されたものである。

まず、入口には高さ24m、幅18mの大鳥居が現れる。車で通れる大鳥居は圧巻!そして大鳥居から正面に300m進んだあたりに応天門があり、応天門をくぐって正面にあるのが儀式などが執り行われた朝堂院(大極殿)である。

応天門:平安京の大内裏の内側にあり、朝廷内での政務・重要な儀式を行う場であった朝堂院の正門。

大河ドラマ「光る君へ」でもロケ地となっており、2023年5月には、主人公・紫式部(まひろ)を演じる吉高由里子さんと、紫式部生涯のソウルメイト・藤原道長を演じる柄本 佑さんが、平安神宮でクランクインを迎えたというニュースがありました。

道長の血筋が今にも続いている

天皇の住まいである平安京を見てきたところで、道長全盛期あたりの天皇についてみていこう。

名前キャスト道長との関係
65代花山天皇本郷 奏多冷泉天皇(63代)藤原伊尹の娘
66代一条天皇塩野 瑛久円融天皇(64代)詮子(道長の姉)従兄弟
67代三条天皇木村 達成冷泉天皇(63代)超子(道長の姉)従兄弟
68代後一条天皇一条天皇彰子(道長の娘)
69代後朱雀天皇一条天皇彰子(道長の娘)
70代後冷泉天皇後朱雀天皇嬉子(道長の娘)
71代後三条天皇後朱雀天皇禎子内親王
(道長の娘・妍子の娘)
ひ孫
72代白河天皇後三条天皇藤原茂子玄孫
摂関時代以後も続く道長の血筋

道長の息子・頼通(渡邊圭祐)の娘に皇子が生まれなかったため、後冷泉天皇の後は、藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位した。頼通のあと、関白の座は弟の教通が継承したが、藤原氏は天皇の外戚という地位を失うこととなった。

さらに白河天皇は道長の叔父の流れにあたる茂子を母としており、頼通、教通との血縁関係はますます薄れていった。

藤原摂関家との血縁が薄い白河天皇は、これをチャンスと、子の堀河天皇に譲位後も、「上皇」として政治的権力をふるい続ける「院政」を始めたことで有名である。「院政」は、白河、鳥羽、後白河へと引き継がれ、藤原氏から朝廷の権力を取り戻すことに成功した。後白河上皇の時代に、源平合戦が起こり、武士が政権を担う鎌倉時代へと続いていった。

院政期から鎌倉時代にかけても、藤原氏は最有力貴族としての地位を保持していたが、政治の実権は上皇や武士(将軍、執権)らの手にゆだねられてしまったため、道長の時代のような権力の頂点に君臨することはできなくなっていった。

このように後三条天皇、白河天皇が即位することで、藤原氏は外戚の地位を失ったが、道長一族と皇族の間に血縁関係がなくなったわけではなかった。後三条天皇は彰子の孫、道長のひ孫であり、白河天皇はその皇子である。

以後、今上天皇に至るまで、その血縁関係は続いている。

コメント