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2024年大河ドラマ「光る君へ」|平安時代の貴族は何して過ごしてた?食事は?

2024年大河ドラマ

平安貴族と言うと仕事はほどほどに蹴鞠や和歌、管弦等に明け暮れていたイメージがありますが、実際には、貴族の中にも様々な身分があり、下級貴族はかなりの激務であったと言います。

 貴族の1日に密着してみましょう。

貴族の朝

その日の運勢を見る、顔や口、手を洗う、仏などにお祈り、日記を書く、身支度など朝には色々やることがあったため、午前3〜4時ごろに起床していた。あらかじめ日付とその日ごとの運勢が書かれた具中暦というものがあり、それで運勢を確認していた。具中暦は、陰陽師が作成していた。

運勢が悪い日は仕事を休んでもよかったそう。うらやましい。。

出勤

身支度が済んだら、牛車に乗れる身分の貴族は牛車で、下級役人は徒歩で大内裏の朝堂院(仕事場)まで出勤した。

<出勤は大内裏の開門に合わせて>
門は夏至で午前4時30分、春分と秋分で午前5時40分、冬至で午前6時40分ごろに開いた。
参議以上の高級貴族であれば、遅い出勤も認められていた。

どんな仕事をしていた?

国政に関する書類の決裁や議定が中心であった。
また、宮中では多くの年中行事があり、これらの行事を滞りなく進める事も貴族の大事な役割であった

儀式や行事の時のふるまいは、人望や政治家としての評価につながっていた。

・上流貴族・・・昼頃出勤して少しだけ会議をして終わり
・中流貴族・・・天皇の食事の世話や教育係など
・下流貴族・・・宮中の掃除や格子の上げ下げ、警備など

現在に受け継がれる行事

人形を流し災いを払う「ながしびな」。その後、女の子の人形遊びと結びついて、ひな祭りに形を変えたと言われる。源氏物語の第12帖「須磨」には、光源氏がお祓いをした紙人形を船に乗せ、須磨の海に流したという記述がある。

また、満月を楽しむお月見や、星に願いごとをする七夕も平安時代の行事がもととなっている。5月5日のこどもの日は、平安時代に菖蒲を軒に飾って邪気を追い払った「端午の節句」がもとになっている。

退勤

基本的には4時間ほど働き、午前中に退勤した。宿直(とのい)という午前から翌朝3時まで働く当番の日もあった。

退勤後は何をしていた?

和歌を詠んだり、琴などの楽器を演奏したりして遊ぶことも多く、時には夜通し朝まで遊ぶこともあったという。詩歌管弦は宮中行事の時に人前で披露することもあったことから男女問わず、貴族にとって必須の教養であった。

屋外の遊びもあったが、女性は基本的に部屋の外に出ることができないため、おもに男性貴族が楽しむものであった。女性は、御簾の内側からそれを見て楽しんでいたそう。

また、蹴鞠やすごろく、碁、物合せ、宴を開いたりもしていた。

物合せ

たくさんの人を集めて2組にわけ、順番に持っているものを出して、どちらが優れているかを競う遊び。貝合わせ、歌合せ、虫合せなどいろいろな物合せがあった。

ただし、源氏物語に出てくる、絵を比べて競う絵合せは、源氏物語以前の記録はなく、紫式部の創作であったと言われている。

貴族は何を食べていた?

食事は朝10時と夕方4時の、1日2回であった。

メニューは?

大盛ごはん、汁物、3種類のおかず、調味料が入った小皿があるくらいであった。

主食は米で、炊いたり、おかゆやおにぎりにして食べていたそう。

おかずには、大豆や小豆などの豆類雑穀、ウリ、ナスなどの野菜山菜海苔や魚介類キジの肉鶏の卵などがあった。牛や馬や豚などの肉を食べるのは禁忌とされていた

お菓子はあった?

梨や柿などの果実、栗などの木の実などが菓子とされていた。

就寝

日没と共に就寝。夏では19時ごろ、冬では18時ごろで、8時間ほどの睡眠を取っていたと考えられる。

日記は自分のためじゃない?

平安時代の貴族たちは、よく日記をつけていた。これは個人的な出来事を書く現在の日記と異なり、仕事や行事の信仰が間違っていないかを記録し、子孫や他の貴族に伝えるものであった。行事のマニュアル本として代々受け継がれた。

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